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昔から、破壊衝動がある。
すごくすごく大事で、絶対に無くしたくない、もし壊れたり無くしたら絶対泣いちゃうだろうなっていうようなものを、自らの手で壊したい願望がある。
この破壊願望の向けられる対象は、物に留まらず、時として自分自身であったりもする。
僕には、僕自身を破壊したい願望がある。
醜いものに汚されて、壊されたい願望がある。
僕がはじめて性的な昂りを感じたのは、中学1年の頃、布団の中でした妄想だった。
それは当時一人だけいた友達の兄に、ちからづくで無理やり脱がされて、とにかく汚い事をされるっていう妄想だった。
まだ具体的な性行為だったり自慰行為だったりっていうのを知らなかったから、とにかく裸にされて汚い事だったり、嫌な事をされる妄想して、それに漠然とした昂りを感じてた。
無論ちんこしばいたり、射精したりもしない。
ただ妄想をして、悶々とするだけだった。
人や動物は、逃れられない暴力を継続的に受け続けると、その暴力に対して快感を感じるようになるという。
それは生存の為の本能的な性質らしい。
小学校の頃、同級生に無理やり押さえつけられて、脱がされたりした事が何度かあったけど、その体験がどの程度僕の性衝動に関係してるかは分からない。
なぜそんな事になったのかといえば、当時の担任の「善意」のせいだ。
僕には生まれつきの肌の病気があって、プールに入ったり出来なかった。
先生にはそれを伝えてあって、先生なりに考えた結果の事だったんだと思うんだけど、先生はそれを朝のホームルームの時に、クラスの皆に打ち明けた。
先生は僕を教卓の横に立たせて「この子は肌の病気があるけど、感染するものでもないし、病気があるからって劣ってるわけでもない。だから虐めちゃいけないよ!」と言った。
無論小学生なんて好奇心の塊みたいなもんだから「この子は皆と違う肌をしてる」なんて言えば、それがどんなものなのか見たくなるものだ。
で、そういう事になった。
もともといじめられっこ体質だった僕は、彼らにとっていい玩具だったんだと思う。
小学生3年から5年になるまでの間、そういう事が何度もあった。
別にその事を根に持ってもいない。
僕が彼らの側だったら、同じ事をしたと思う。
小学生なんてそんなものだ。
それはそれとして、今ここに、歪んだ性衝動がある。
醜いものに汚されて、壊れちゃいたい、という願望がある。
それの為に僕は新宿2丁目で一度だけ体を売った。
声をかけてきた醜いおじさんに、9000円と3000円分の商品券で、売った。
一つ前の日記で「おじさんは僕を女の子のように扱ってくれたから売った」とも書いたけど、それだけなら別に彼じゃなくても良かった。
僕を女の子のように優しく扱ってくれる人は、他にもいた。
ただその中で、彼はお金で僕を買おうとした。
愛を育む事を面倒くさがって、省こうとして、その代価としてお金を差し出してきた。
そこに確かな醜さがあった。
その醜いものに、お金を貰って身を差し出す事は、僕にとって紛れも無い破壊行為だった。
無論後悔をしてる。
すごく後悔をしてるのに、またしたい願望すらある。
友達に必死に止められた。
かつてないくらい、本気で怒られた。
それなのに、またしたい願望がある。
歪んでいく自分を自覚できる。
お金や、幾らかの潤いの為に、体を差し出しちゃってもいいか、と考えたりする。
ほんの幾らかのお金の為に、自分の体を、人を、利用したい願望がある。
多少の躊躇はあれど、それを実行できる人間である事を、この間の10月14日に、自らの行動を以って証明した。
破滅をしたのだと思う。
お金で体を売った事で、確かに破壊されたのだ。
僕はそれまででかい声で撒き散らしてた奇麗事を、ほざく権利を失った。
汚れたのだ。
汚らしい人間になった。
愛の無い相手に、お金で体を差し出す事で。
「まっとうな人間」としての人生は、そこで破滅したのだ。
破滅した事を嘆くべきなのか、破滅願望を達成したと喜ぶべきなのか、今もよく分からない。
破滅した事を嘆く自分に従えばいいのか、破滅を望む自分に従えばいいのか、もうよく分からない。
すごくすごく大事で、絶対に無くしたくない、もし壊れたり無くしたら絶対泣いちゃうだろうなっていうようなものを、自らの手で壊したい願望がある。
この破壊願望の向けられる対象は、物に留まらず、時として自分自身であったりもする。
僕には、僕自身を破壊したい願望がある。
醜いものに汚されて、壊されたい願望がある。
僕がはじめて性的な昂りを感じたのは、中学1年の頃、布団の中でした妄想だった。
それは当時一人だけいた友達の兄に、ちからづくで無理やり脱がされて、とにかく汚い事をされるっていう妄想だった。
まだ具体的な性行為だったり自慰行為だったりっていうのを知らなかったから、とにかく裸にされて汚い事だったり、嫌な事をされる妄想して、それに漠然とした昂りを感じてた。
無論ちんこしばいたり、射精したりもしない。
ただ妄想をして、悶々とするだけだった。
人や動物は、逃れられない暴力を継続的に受け続けると、その暴力に対して快感を感じるようになるという。
それは生存の為の本能的な性質らしい。
小学校の頃、同級生に無理やり押さえつけられて、脱がされたりした事が何度かあったけど、その体験がどの程度僕の性衝動に関係してるかは分からない。
なぜそんな事になったのかといえば、当時の担任の「善意」のせいだ。
僕には生まれつきの肌の病気があって、プールに入ったり出来なかった。
先生にはそれを伝えてあって、先生なりに考えた結果の事だったんだと思うんだけど、先生はそれを朝のホームルームの時に、クラスの皆に打ち明けた。
先生は僕を教卓の横に立たせて「この子は肌の病気があるけど、感染するものでもないし、病気があるからって劣ってるわけでもない。だから虐めちゃいけないよ!」と言った。
無論小学生なんて好奇心の塊みたいなもんだから「この子は皆と違う肌をしてる」なんて言えば、それがどんなものなのか見たくなるものだ。
で、そういう事になった。
もともといじめられっこ体質だった僕は、彼らにとっていい玩具だったんだと思う。
小学生3年から5年になるまでの間、そういう事が何度もあった。
別にその事を根に持ってもいない。
僕が彼らの側だったら、同じ事をしたと思う。
小学生なんてそんなものだ。
それはそれとして、今ここに、歪んだ性衝動がある。
醜いものに汚されて、壊れちゃいたい、という願望がある。
それの為に僕は新宿2丁目で一度だけ体を売った。
声をかけてきた醜いおじさんに、9000円と3000円分の商品券で、売った。
一つ前の日記で「おじさんは僕を女の子のように扱ってくれたから売った」とも書いたけど、それだけなら別に彼じゃなくても良かった。
僕を女の子のように優しく扱ってくれる人は、他にもいた。
ただその中で、彼はお金で僕を買おうとした。
愛を育む事を面倒くさがって、省こうとして、その代価としてお金を差し出してきた。
そこに確かな醜さがあった。
その醜いものに、お金を貰って身を差し出す事は、僕にとって紛れも無い破壊行為だった。
無論後悔をしてる。
すごく後悔をしてるのに、またしたい願望すらある。
友達に必死に止められた。
かつてないくらい、本気で怒られた。
それなのに、またしたい願望がある。
歪んでいく自分を自覚できる。
お金や、幾らかの潤いの為に、体を差し出しちゃってもいいか、と考えたりする。
ほんの幾らかのお金の為に、自分の体を、人を、利用したい願望がある。
多少の躊躇はあれど、それを実行できる人間である事を、この間の10月14日に、自らの行動を以って証明した。
破滅をしたのだと思う。
お金で体を売った事で、確かに破壊されたのだ。
僕はそれまででかい声で撒き散らしてた奇麗事を、ほざく権利を失った。
汚れたのだ。
汚らしい人間になった。
愛の無い相手に、お金で体を差し出す事で。
「まっとうな人間」としての人生は、そこで破滅したのだ。
破滅した事を嘆くべきなのか、破滅願望を達成したと喜ぶべきなのか、今もよく分からない。
破滅した事を嘆く自分に従えばいいのか、破滅を望む自分に従えばいいのか、もうよく分からない。
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